●会場は立ち見がでるほど超満員!
兵庫県の神戸市に校舎をかまえる神戸電子専門学校で、2010年5月2日に
『桃太郎電鉄』シリーズの生みの親で知られるゲームクリエイターの
さくまあきら氏によるスペシャルセミナーが開催された。
約300人を収容できるホールが、前も後ろもズラリとイスを増設しなければならないほどの盛況ぶりの
超満員のホールでは、さくま氏がこれまでに手掛けた作品の開発秘話や、
ゲーム業界を目指す学生たちに向けたアドバイスなどが語られた。
始まりはみんな友達との遊びから。
聞き手:まず、「桃太郎電鉄」が生まれるまでのお話を聞いてみたいです。
さくま:大学を出て普通に就職する予定でした。僕はむしろ電車より車の方が好きで、
そのうえ父が日産自動車の人事課に勤めていたんですよ。書類に丸をつければ終わり。ところが、
大学4年のときに遊びすぎて、留年してしまったので、
入りづらくなってしまって……。
で、誰と遊んでいたかというと、「ドラゴンクエスト」をつくった堀井雄二です。
彼とは学生時代からの友人だったんです。
堀井もめでたく留年しました(笑)。その当時から付き合っていた連中が集まって、
ゲームができたんです。「ポポロクロイス物語」をつくった奴も、その攻略本を
つくっていた会社の奴も、みんなそのときの仲間。
聞き手:「桃太郎伝説」の頃は、ここにいるみんなはまだ生まれていないと思います。
「桃太郎伝説」が生まれたきっかけは?
さくま: 「ドラゴンクエストⅢ」を堀井雄二がつくっていた頃だったかな、
その頃にたまたま「ドラゴンクエストⅡ」で遊んでいて、
早く「Ⅲ」が出ないかなーと思っていたんです。「ドラゴンクエストⅢ」はその当時の
年末に発売されると世間では言われていたんですが、僕は友人なので
もう間に合わないことを知っていました(笑)。
それじゃあ、今からゲームをつくって12月に出せば、「ドラゴンクエストⅢ」を買えない
お客さんはうちのゲームを買うだろうという、安易な考えから始まりました。
「ドラゴンクエスト」は、皆さん知ってると思うけど、仲間を集めて最終ボスを
倒すゲームですが、よく考えると日本の桃太郎という伝説と同じなんですよ
聞き手:学生からの事前の質問に、なぜ“桃太郎”なのか?というのが
多かったのですが、そういうわけだったんですね。
さくま 堀井の「ドラゴンクエスト」みたいに面白いゲームがつくれたらいいなあ、
とは考えましたが、自分にはつくれないだろうと思っていたんです。でも
「ワシがつくれたんやから簡単や」と堀井にそそのかされて。ところが、簡単どころか
やればやるほど辛い。電話で堀井に「ちょっとこれ、辛くないか?」って言ったら、
「そうやねん!」とカミングアウトされてしまいました(笑)。他にこういうことを
やっている人間がいないから、自分の苦しみを誰にもわかってもらえない、
誰かを餌食にしたかった、ということで、餌食になってしまったんです。本当に辛いの
なんの。米粒に文字を書くような緻密さが必要なんです。
ゲームづくりはめいっぱい楽しみながら!
さくま:僕も堀井もボードゲームが好きだったんです。RPGは大変だから、
ボードゲームをつくろうということになりました。2人で同時に発売すればちょっとした
ブームになるだろうということで、同時にスタートしました。そして、僕は半年で
「桃太郎電鉄」を出し、堀井は3年かかって「いただきストリート」を出しました。
遅いんですよ。
聞き手:電車に注目したのはなぜですか?
さくま:僕は鉄道の駅の隣で生まれて、電車の音を聞いて育ったんです。
いちばんやりたかった仕事は、町おこしです。町おこしは今のゲームの中にも
入っています。かつて、鹿児島にいた知り合いに、鹿児島で町おこしをやらないかと
言われたことがあるんですが、鹿児島でというのはちょっと大変だなあ……と。
でも、ゲームの中でなら、ひとりで何でもできます。楽しみながら町おこしをやれる。
ゲームでもテレビ番組でも、何でもそうなんだけど、楽しくつくらないと、
お客さんに絶対わかってしまいます。この番組の現場に行くのが楽しくてしょうがない、
というような番組は、その時間帯でトップの視聴率をとったりするんですよ。
だから、それはゲームをつくるときも同じなんです。クリエイターにしても、
辛かったらやめたほうがいいです。どうやって自分が楽しんでつくれるか、が
大事ですね。逆に言えば、好きなことを職業にして一生を送れたら最高でしょうね。
“友達をつくろう”から生まれた桃鉄。
聞き手:「桃太郎電鉄」が誕生したのは、もう随分前になりますよね?
さくま:22年前ですから、1988(昭和63)年ですね。こんなに続くとは思って
いませんでした。
聞き手:「桃鉄」の開発秘話をうかがってみたいです。
さくま:プレイヤーにいちばん伝えたいのは、“友達をつくろう”ということです。
「桃鉄」に出てくるキャラは、大半が僕の友人が元になっているんです。
例えば、顔の大きな貧乏神は、榎本一夫という友人です。「ジャンプ放送局」の。
「ジャンプ放送局」といっても、ここの皆さんは知らないと思いますが。
あ、知っている人がいるんですか(会場内で挙手があった)。うれしいなあ、
終わって15年にもなるのに。
今、『少年ジャンプ』の読者ページをやっているのが、かつて僕のページで
優勝した読者です。まさしく世代交代ですね。そして、僕らの時代の読者ページの
ギャグを呼んで育った子たちが、今吉本の芸人になっています。バッファロー吾郎や
陣内智則といったところでしょうか。
聞き手:思い出のカードなんかはありますか?ちょっと汚いですが、
「うんちカード」なんてのもありましたよね。
さくま:テストプレイ中に、「僕はうんちくらい平気だから通せ!」っていう奴がいました(笑)。
うんちの影響力はすごい。「少年ジャンプ」の人気投票では、
うんちが出るか出ないかで全然順位が違っていました。だから、うんち、おならは
疑問なく入れています。
キャラクターを描いているのは土居孝幸です。大学時代、漫画研究会で
堀井雄二の後輩だったんです。彼もその頃からの仲間。堀井の漫画研究会時代の
同級生が小学館の編集者になったんですが、その関係で実は堀井は『ゴルゴ13』の
原作を2作書いているんですよ。誰にも知られていませんがね。
皆さん、業界の人たちはこういう専門学校などですごい努力をしてそうなったと
思われているかも知れませんが、意外に簡単。友達次第なんですよ。
だから、たくさん友達をつくっておくことがいちばん大事。僕だって、
堀井君が声をかけてくれなければゲームをつくることもなかったんです。
土居くんがいなければ、こういう桃太郎のキャラクターも生まれなかった。
聞き手:友達づくりで大事なことって何でしょうか?
さくま:やっぱり、マメに連絡を取り合うことでしょうね。友達だから言いたいことも
言えるけれど、嫌がることは言わない。こういうマナーも大事。
「親しき仲にも……」っていうね。友達のひとりがちゃんと本を読む奴だったら、
自分も本を読むようになりますし。
ジャンプ放送局をやっていたおかげで、ゲームをつくったときに、ゲーム好きな
関西のお笑い陣がテストプレイをしてくれました。茶屋町の毎日放送の会議室を
とってもらって、デバッグモードにしたゲームを持って行ったんですよ。
「お笑い芸人で時間が空いている人はここでゲームのテストプレイをしてください」って。
そこに来ていたのが、陣内智則、シャンプーハット、野性爆弾、バッファロー吾郎、
ダイアン、ケンドーコバヤシ……彼らもみんな仲良しになって、今の「アメトーク」といった
番組をつくっていますよね。
人脈がすごいと思うかも知れないけど、別にすごくないんですよ。皆さんの隣にいる
友達だって、今は全然すごくない普通の奴と思っているけど、大物になるかも
知れないですよ。
大きく変えないことこそが、長続きの秘訣。
聞き手:これも事前に多かった質問なんですが、ロングランの秘訣は?
さくま:僕は偉大なるマンネリ化だと言っています。つまり、「変えない」技です。
東京ディズニーランドだって、そんなに変わっているわけじゃないんです。
毎年1割だけ変えているんですよ。それと同じで、1割から2割は変えるんですが、
ボタン操作が変わっちゃうといけないのでそれは極力変えない、とかね。
お客さんからの苦情や要望は全部洗います。徹底して開発した電化製品の
ようなものです。コマンド操作のボタンひとつ減らすのに、1日じゅう会議しますからね。
面白いものでも、使いづらかったらお客さんに遊んでもらえません。
ゲームに対する意見は、僕のブログでもどんどん言ってもらうようにしています。
日記にはコメントが書き込めるようになっています。
聞き手:次の質問です。どこで仕事をされているのですか?
さくま:とにかく忙しいので、24時間勤務に近い状態ですね。夜中に目が覚めて
アイデアが浮かんだら、すぐその場で仕事が始まります。新幹線の中でも仕事です。
昔、新幹線で「あの物件、2千万は安いよな」とか、「2億はいるよな」とかやっていると、
周りの乗客が「こいつら、何言ってんだ?」みたいな顔で「若造のくせに、
何が3億円じゃ安い、だ、バカヤロー」なんて言ってきたことがありましたね(笑)。
言われてみればそうですよね。
スタッフとは、新幹線にいる間じゅう会議をしています。開発中は、札幌にある
ハドソンまで鉄道で通っていました。わずか12時間ですよ(笑)。2週間に1回
通っていましたね。高いところがダメだから、飛行機に乗れないので。ホテルでも
5階くらいまでしかダメ。それに、電車の方が楽しいんです。
情報収集は、築き上げてきた情報網がモノを言う。
聞き手:各地のおいしい食べ物などの情報は、どこから入手するのですか?
さくま:読者のみなさんや、観光課からもらうことが多いです。あるときインターネットで、
日本中のオムライスを食べ歩いている人のブログを見つけたんです。
日本中のオムライスなんて、そんなに変わらないだろうと思ったんですが、
いろいろと書いているわけですよ。面白い人だなと思ってメールしてみました。
向こうがこちらの情報を見たら、すぐに「桃鉄」のさくまあきらだなとわかります。
その人の返信には、「同業者です」とあったんですよ。何と「ファミスタ」をつくった
人だったんです。じゃあ会いましょう、ということで、友達になりました。
たまたまそういうつながりがあっただけなんですけどね。この学校でセミナーをやった
岡本吉起君(㈱ゲームリパブリック代表取締役社長)とは、たまたま何かのイベントで
知りあいました。堀井雄二もそのイベントに出ていたので、彼を訪ねて行ったんです。
僕は当時たまたま大阪でゲームをつくっていて、近所だから遊びに行きますねという
感じで、仲良くなりました。僕は普段お笑い芸人とばかり会っているので、
ゲーム業界のことは岡本吉起君に聞きます。
聞き手:「桃太郎電鉄」は何人で、何年かけてつくったのでしょうか。
さくま:「ドラゴンクエスト」は200~300人ですが、うちは20人ぐらいです。
ゲーム業界でいちばん少ないんじゃないかな。初代のものでも10人ちょっとでした。
期間も短いです。もう、ギネス記録じゃないかっていうくらい、毎年出してますから。
「桃鉄」は、実際に模造紙に書いてつくっていました。途中からうちの若者たちが、
お金の計算が電卓では間に合わないというので、コンピュータを使うようになりました。
「計算が早いねー、間違わないしねー」なんて言ってましたよ。若者たちの中に
漫画家志望がいて、紙に日本地図を書かせていましたね。
今思えば、彼らの中にそういう得意分野を持つ者がいたからゲームもできたんですよね。
サザンオールスターズの関口和之君は、ゲームなんて全くやったことがなかったのに、
個人的に友達だったから「桃鉄」の曲を書いてくれたんです。実は彼は漫画家に
なりかったそうなんです。それで、漫画家の仲間に入りたいっていうので、
パーティーなどに連れて行ったりして、交流が生まれたんですよ。
何がきっかけになるかは、わからないものです。