神戸ジューコム
人道支援の地「神戸ユダヤ共同体」(神戸ジューコム)跡地
2020年11月19日、神戸電子専門学校南館の石垣が、難民支援の歴史的跡地であることを受けて、
その記録を後世に残すため案内板を設置し、その除幕式を挙行しました。
「神戸ユダヤ共同体」(神戸ジューコム)とは
1937年(昭和12年)、ユダヤ人アナトール・ポネヴェスキーによって、「神戸ユダヤ共同体」(アシュケナジー派)が当地につくられました。当時神戸には、日本最大のユダヤ人組織があり、シナゴーグ(ユダヤ教集会所)がありました。
1945年(昭和20年)6月5日の神戸大空襲で建物は焼失しましたが、隣接の石垣(写真①)がほぼ当時のまま残っています。
第二次世界大戦の戦火が欧州に広がりつつある1940年(昭和15年)6月、神戸ユダヤ共同体はリトアニアから7人のユダヤ難民を助けてほしいという電報を受け取りました。すぐさまポネヴェスキーは、日本の政府に彼らの通過ビザを認めるように働きかけました。
その後、同じような電報が続々と入り始めます。ポネヴェスキーは共同体の25家族のユダヤ人を招集し(アシュケナジー派)、ユダヤ難民の受け入れを決定しました。
同胞のための経済的な援助を求め、ニューヨークの「ユダヤ合同分配委員会」(通称ジョイント)に電報を打ちました。返ってきた電報には「ユダヤ人を救え。お金は問題ではない」とありました。そのときの電報の宛名が「JEWCOM」でした。その時から、神戸のユダヤ難民救済活動拠点となった「神戸ユダヤ共同体」は、「神戸ジューコム」(写真②)と呼ばれ、世界中にその名が知られるようになりました。
一方リトアニアでは、杉原千畝領事代理の人道的な行為によって、日本通過ビザを得たユダヤ難民はシベリア鉄道経由で日本を目指しました。この「命のビザ」と他の領事館発券のビザによって、また、通過ビザのないユダヤ難民も含めて、4500人を超えるユダヤ難民が主にウラジオストック、福井県敦賀を経由して、安心の地神戸にたどり着いたのです。
神戸ユダヤ共同体は、ユダヤ難民に、住まいの提供から生活のための給付金、食料、衣服の支給、祖国や欧州の情勢の広報、日本の役所からの通知、ジューコム宛の手紙の貼り出し、そして、出国に関する相談、様々な心配事の助言まで、あらゆる支援を全員で献身的に行いました。この活動は、単に同胞愛というだけでなく、真の人間性の発露として永遠に伝えられるべきものです。
また、神戸の人々も、心を開いてユダヤ難民を受け入れ、昭和15年~16年末にかけて、市内の各地で様々なあたたかい交流が生まれました。(写真③④)神戸の市民が、彼らに思いやりの心で接し、亡命先が見つかるまで親身に支援し共に生活をしたことは、ユダヤ難民の心に温かい思い出として記憶されることでしょう。
(文責 岩田隆義)
外交官 杉原千畝「命のビザ」
第二次世界大戦の最中1940(昭和15)年の7月、ポーランドなど欧州から逃れてきたユダヤ難民に、独自の判断で日本の通過ビザを発給。数千人にものぼる難民の人命を救った。彼の発給したビザは、「命のビザ」と呼ばれる。
1985年 イスラエルから彼の人道的な行為に対して、「諸国民の中の正義の人」という称号を授けられる。
写真は、外務省外交史料館所蔵
「神戸ジューコム」跡地と阪神淡路大震災
1995年1月17日、神戸では6000名以上の尊い命が失われた阪神淡路大震災が発生しました。自宅損壊や電気、ガス、水道、情報等生活インフラの寸断によって、避難を余儀なくされた近隣の被災者約200名が、当石垣に建つ「神戸電子専門学校」南館地下講堂に押し寄せ、生活再建がはじまるまでの避難生活をおくりました。
(文責 山森大雄美)
当時、神戸で実際に過ごした方も除幕式にオンラインで参加
除幕式では、オンラインで海外と接続し、神戸で実際に過ごした方から当時の様子をお聞かせいただけたほか、駐日大使館からご来賓をお迎えできるなど、本校だけでなく世界的にも歴史的イベントとなりました。
1985年 また、Facebook LIVEによるライブ配信も行い、多くの国内外の方にもご覧いただきました。ライブ配信を保存した動画は「人道支援の地「神戸ユダヤ共同体」(神戸ジューコム)跡地 – “The site of the Jewish Community of Kobe”」Facebookブックページ」にてご覧いただけます。
神戸電子のオープンキャンパス・イベント紹介